昭和40年6月13日 朝の御理解 ★×2
信心をさせて頂いたたら、心に喜びが耐えない、どういう信心をさせて頂いたなら、心に喜びが湧いてくるかと、ここんところをひとつ、皆さん、目指しての信心でなからないかんと思うんですね。『真に有難しと思う心すぐにみかげの始め』と仰るんですが、真に有難いと、真にそこから湧いてくる喜びと、そういう心が、もう次のおかげを、幸せを約束するわけなんですから、やはり目指す所は、ここでなかならなければならない。
信行も、表行も、こうした朝参りも、日常生活の上に教えを元にした信心生活をさせて頂くことも、いうならその、その喜びが頂きたいというのである。
(途中切れ)
頂きますと、どこをどうとってもやはり、心の中に頂く真に有難いと、信心のお喜びというものを頂かせて頂く為の御教えだというても、良いのでございます。
★私は今朝から、あることをお願いさせて頂いて、(?)ある方の難儀のことですけれども、お願いさせて頂いておりました。そしたら、『花』という字を頂くんですね、草冠に化すと書いてある。草冠というのは、私は自然ということだと思うんですね。いつも草冠というのは、自然の働きとか成り行きとか、に、化していく。ね、変っていく、日々変わったことがあってくると、その変わってくることの中には、痛いこともあれば、痒いこともある、うれしいこともあれば、腹の立つようなこともあるんだけども、そのすべてがです、そのすべてが、神様のお働きとして、信心させて頂くものがです、変わったことが起ってきたら、有難いと心得てといったようなもの、変わったことが起こってきたら、有難いと心得て、信心させて頂く、いうなら自然に起きたことを合掌して受けていくというような心になれば、心に花が頂けれるんだ、心の花というのは、喜びの花なんだ。
と、私はそう感じたんです。確かにそうです。そこに私共が、いつも思わなければならないことはです、やはり、いつも心に喜びを絶やさないで、信心の稽古をしておる人たちの、信心の進め方というものを、(?)習い、聞き習いしていかなきゃならん、同時に、教組の神様のいわゆるあられ方、教組の神様ならこういう時、どういう風にお受けになっておいでなられただろうかと、というようにね。
昨日、福岡の渡辺先生が(?)に出て見えられてから、え~、もう去年だったでしょうかね?息子さんが、ちょっとも~30くらいでしょうか?まあいうなら、少し婚期を遅らかせておられる、様々な事情があって。次々(?)があって、も~(?)式の日取りに、が決まるというときに、ちょっとしたことから破談になって、それからも、いくつかも、神様のお許しを頂いてから、祝いもしてもよかろう、順調にいくならもろうてもよかろうという話が次々とあった。
つい最近もそれがあった。許しを頂いたらただ今のようなことであったから、今度くらいは一つ成就してくると、有り難いなと思うですね、親御さんとしても、息子さんとしても、ここを進んでおられるわけなんです。
とくに昨日、先方から断りをいうてきたって言うわけ。息子さん曰くなんですね。「お母は、神様にお願いをしておかげを頂くということはね、お母さん、無理な、無理なんですよ」と。「ところが、私が思うのにね、お母さんの話を聞いておると、椛目の先生が、人間の本当の生き方、その生き道、そういうものがただ教えられるだけであって、そこに、おかげが受けると受ない、そんなことはね、そんなことは、私共が予期する方が間違っておるじゃないだろうかね、お母さん」とこう「そりゃーあんたいい事を分かってくれたね」と「ね、お母さん今度の事をあんたにどう言おうかと、御神意のままに、例えば動かせて頂いておって、先方から断ってくるというようなことですから、神様も当てになったもんじゃないというて、あんたが悪口を言うかと思ったら、そういう風にいうてくれ、確かにそうなんだと。けど、それから先は言えなかった」というわけである。ね。
私それを思うです。本当に信心とはね、人間の生き道を教えるという、生き方を教えるのである。その生き道を、生き方を習っておりながら、その生き方に、生き道に沿わなかったらどうなるか、そのことになれば、おかげが受けられるのであるということ。なら、生き道を習った、だけで、その生き道を辿らなかったらおかげにはなりません。
それから先は、だから信心をさせて頂き、本気で教えを行ずる人の上にでなかならければです、こういうおかげを受けられるんだというものは受けられない、いわゆる、私が今日言うその、心の花、心の中に頂く所の喜びといったようなものとても頂けない。
形の上のおかげなら、ね、例えその生き道に辿らなくても、金光大神のお徳によって、お取次ぎによって助けも頂くだろう、奇跡的なおかげを頂くだろうけれども、心に生まれてくるところの喜びというものは頂けない。
そうでしょうが、そこで私は教祖の神様の言われる事を2,3話させて頂いた。「そうですね、渡辺先生、それから先の説明が出来ない」ね。ところが、そこんところがです、自分自身が成程、生き道を生き方を教えられるのだけれども、生き道に沿うていないんだあ、生き方にも沿うていないんだあという事が分かって来る時に、相すみません(?)渡辺先生という、「本当にそうなんですね」と「帰らせて頂いたら本当に、そういう生き道を教えて頂き、生き方を教えて頂いたのだけれども、お母さんがそこを行じていなかった処に、あんたが合点するようなのおかげになってこなかった、やっぱおかげというものは頂けれるもんだという事を、子供に私がしてやらなければならない」というわけなんですね。
(?)ですけれども、御造営の足しに(?)思うんであの、今あの高島さんところの紹介で、あちらの大阪の方へ仕入れ、仕入れにいかれたんだそうですね。自分の知っておるところだけでも、それは、商ってその利益をまあお供えさせて頂きたいといったような事をその名案として、今、真珠を今あの、商っておられるんですね。
ところが(?)、もうおかげを頂いて毎日、一ヶ月くらいは必ず真珠をその、買って下さる方があったのですけれども、ここのお参りをさせて頂いて、月次祭だったでしょうか、その、翌日から、ぱったりその、いうなら、やんでしまったと。
どうした事じゃろうかと、お願いしてから、お参りしてから、商いが止まるちゃどういう事だろうかと。自分の為ならしよう(?)、神様の為にしよっとにどうしてだろうかと、気があったんですね。
そして今日の話なんです。先生その商いがいっぱいあがりましたち。沢山仕入れて見えられた中にその、あの大変高価なものだそうですね、、黒い真珠というものがある黒真珠。その中の一つくらいはよかろうというて、それを自分のものにして、指輪にしてここにはめられてきておったのですけれども。これは私が、(?)しもうておったという事。(?)一つぐらい自分の身につけてもいうたってもよかろうという事だった。「もう、私は本当に(?)いわゆる難儀せなければならん」というて、そういう事を言われるんです。 その事だけの事ではない、信心をさせて頂きよってです、生き方生き道を教えて頂きながら、人の真の道を教えて頂きながら、真の道を踏まぬ事であった事に気がつかせて頂いたと言われるんですね。
確かに息子さんが言われるようにです、お道の信心は確かに人の生き方。ね。ですから、その生き方を私共が行じ表していく時、どういう、難しい問題でも、ちょっと、その開けて来る道が開けて来るのである。
道を行じ(?)それはあまりもの信心だという事になるのです。
ね、教祖の神様はある時神様からお伝えになった。今日は弁当を持って、どこそこまで行けと、ね、お金を拾わせてやるというお伝えであった。神様から、お指図を頂かれるままに、朝から弁当をもって、玉島の方へ向かって歩いておいでなられた。
お昼になったけれども、金一つ落ちていなかった。神様ここまで参りましたが、丁度お昼になりましたが、これから、どちらの方へどうさせて頂きましょうかというて、お伺いをなさったところが、ここで弁当を開いて、そしてこれからまた帰れと仰る。
それでもまた、取って返して、その大谷の方へ帰られる。帰られてから神様の前に出られた。神様からもう、座った途端に「今日はいくらほどのひらいものをしたか」とこう仰る。「それがもう、神様、今日はもう、とにかく、かごに乗らない程のひらい物をさせて頂きました。拾うたものを数え(?)。日頃はこうして御神前に奉仕させて頂きましてから、座りずくめでございますから、どうしても血の巡りが悪うなります。今日はもう久しぶりに外に出らして頂いて、一日を(?)接しさせて頂いてから、体の上に血の巡りのおかげを頂いて、命の頂いた事のお礼を申された」という事である。
何よりもひらい物をさせて頂いたとお礼される。なるほど、(?)「もうお前ばかりは試し様がない」と神様が仰ったそうです。
ある時、親類の誰それが亡くなった。近所の親戚のだれそれを誘うてから、お悔やみに行かねばならんと言うお伝えであった。もう、びっくりされてからその、近所のだれかれも誘うて、お悔やみにいかれた所が、当のご本人が「あー皆さん今日お揃いで何ですか」というてその、出て見えたという事。もうその時ばかりは、ね、穴があるなら入りたいような思いだあった」というような事をいうておられますね。
けれども、これは私の頂き違いと頂かれた。神様相すみませんと(?)られると神様が、「戻しの風は十層倍、戻しの風は十層倍というて帰れ」と神様がお伝えになった。
そこまで話したら、渡辺先生(?)「先生そういう頂き方、そういう教祖の神様のあられ方、それを私共の上に頂くならば、お道の信奉者である」というような事をいうて、感激して本当におかげを頂きまして有り難うございました、ちいうてから帰られたんですけれどもね。
もう、頂けば頂くほど、自分の間違いである事が分からせてもらうのである。そういう時でもです、ね、そういうような頂き方、ね、そういう教祖の神様の在られ方がこのまま私共の信心生活させて頂く者のあり方でなからなければならないという事。ね。
例えばそういうような場合にです、どういう私共がです、例えば自然の中に痛い事が起こったり、痒い事が起こったり、まあいうならそんな事が起こったり、そういう時にです、そういう頂き方の中に、私はいよいよ、自分の(?)を悟らせてもろうて、改まっていくという事。
★その事をお願いさせて頂きよりましたら、「杉さんの奥さん」をこう御神眼に頂きますもんね、杉清子さんち言う。杉というのはあの、松に対する杉ですね、松に対するいわば生き生きとしたおかげというのは、杉はそれの反対の淋しい事という事。
いうならばまあ、おかげ落としの事。そういうおかげ落としと思われるような時ほどにです、いわゆる清子さんであり、清まっていくんだという事。痛い痒いの思いをする時にこれだけ信心をするのといったような事ではなくてです、私の信心の(?)間違いがです、こういういうなら、難儀な事になったという事をです、神様にお詫びをさせて頂いて、今まで気が付かなかったそこの所を、渡辺先生のそれじゃないけれども、( ? )考えや間違いがです、改めていく事だという事。ね、だからそういう問題のたんびに、清まっていく事が出来るのである。
確かに、教祖の神様のそのあられ方そのものがです、ね、人の幸せのおかげの頂けれる、私は生き道であり、生き方であるとこう思うのです。ね。
ですから、確かにお道の信心はです、( ? )なくて、ね、それは、神の権威にかけてのおかげを見せるというのですから、ね、(?)お前の生き方が間違っておるからと言うたってですいけませんから、神の権威にかけても神の一在を分からせる為にね、始めの頃は神様が、おかげを下さる、そこんところをまあ、願う氏子におかげを授けといった御教えがあるわけです。ね。
願う氏子にまずおかげを授ける。そして、後に理解申して聞かせというような、事になって、いうておられますけれども、ね、私共だんだん信心の稽古をさせて頂いて分からせて頂く事は、いわゆる、教祖のあられ方というものを自分の信心生活の上に頂いていくという事。ね。一時が万事にね、神様が神様はお前ばかりは試し様がないと仰るようなあられ方でです、教祖の神様は信心をお進めになられたように、そういう、生き方を工夫させてもらい、話しを聞くばかりが脳ではない、わが心からも練りだせと仰る、そういう風に練り出していく所にです、ね、いわゆる、自然に起きてくる一切の事を合掌して受けてくるような、信心が身に付いて来る。ね。
どんなに日々変わった、(?)日々新な生き方をさせて頂く所にです、どんなに変わった事が起こって来てもそれを合掌して受けていくところに、(?)花という字になるように、ね、それこそ、お大師様ではないけれども「空海の心の中に咲く花は(?)知る人ぞなかろう」というように、大坪総一郎の心の中に咲く花はとにかく天地の親神様の他に知る方はなかろうと、と、神様と自分とが一緒に喜ばれるような境地を求めての信心。
ね。その喜びにもちろん、期せずしておかげを頂けれる事はもちろんの事。ね。だから、目指すところはそこのでなければ、いかに自然が自然の働きがです、そのまま神様の働きであるかという事を分からせてもらう時です、その働きをそれを苦い事であろうが甘い事であろうがです、ね、合掌して受けて行く生き方。
ね、これだけ信心しよのに(?)です、ねそれこそ、「戻しの風は十層倍戻しの風は十層倍」と言うて帰るような、心いきというものが、だんだん、身に付いてならなければならないのではないでしょうかね。
おかげを頂きました。